平凡な日々に光を。

光あれ。例え鈍く、弱い輝きであったとしても。

私の周りの転校生のその後と私(2)

亡くなった父は体にストレスがかかると腸閉塞を起こすくせがあった。

亡くなるまでに5回以上入院している。

一度病院に入ると2週間は帰ってこない。

 

昭和も末のある年の12月31日の夜、やはりその症状が現れた。

もしかして、これが始めてだったかもしれない。

 

車の運転免許はあるものの、車を運転できない母がタクシーを呼び、二人で救急病院に行ってしまったので私と妹が二人残された。

妹とは「とりあえず寝ましょう」と話をして就寝。

 

翌1月1日は大雪だった。

妹と二人で「とりあえず家の前の雪寄せでもするか」と二人、残った料理を食べ終わった後、積もった雪を玄関のわきに寄せていたところ、そこへ祖父が現れた。

義理の孫の私たちにお年玉を届けに来たのだ。

「おめだぢ雪付けしてらのが、ぼーへー?*1

「母さんは昨日、父さん入院したがら、病院さ行ってら」

「!!どこさ入院したっけな」

「組合病院」

 

それを聞いた祖父は運転してきた車ですぐに自宅に戻ったはず、と記憶している。

1日の夜までに母が帰って来たと記憶しているが、多分何も持たずに入院したので一旦荷物を取りに来たのかもしれない。

その辺は妹に後で確認して追記しておこう。

 

次の記憶はおそらくその年の1月5日か6日頃であったと思う。

 

母と私と妹は祖父母の家にいた。

中学生の妹、高校生の私はまだ冬休みであった。

岩倉具視のピン札でまたお年玉をもらった記憶がある。

 

「ピン札は銀行員がアイロンできれいに伸ばしているんだよ」という祖父の話をまるまる信じるようなおめでたい当時の私であった。

まさかそのピン札を扱う職場に入るとは予想はしてなかったろう。

 

その場には祖父母、母、叔母、私たち姉妹がいたはず。

同居していた叔父、従兄弟がいた記憶が全くないのでおそらく叔父の実家に行っていたかいずれにせよ叔父が外に連れ出していたか?

従兄弟たちは私と妹と10歳ほど年下なので、当時小学校2~3年生と3~4歳か?

会社の話をしたところで従兄弟達が理解していたとは思えない。

 

叔母は何やら帳簿付けをしていた。

一方の私ら姉妹は、祖父、社長が新年会で挨拶する時に使用する原稿にルビを振っていた。

巻物に筆で綺麗にしたためてある文章ではあるが、実は祖父はこれをほとんど読めない。

実は祖父は漢字はほとんど読めないし、ひらがなも怪しい。

母に「じっちゃの最後の新年会の挨拶だからちゃんと読めるようにふりがな振ってけれ」とひらがなにもカタカナでルビを振るよう命令されてやっていたように思う。

 

どのような流れになったのか詳細は覚えていないが、唐突に祖父が話し始めたと思う。

会社は潰れるんじゃなく、潰すこと。

婿が二人いるが残念ながら二人ともその任ではないこと。

残しておいても会社を継続させるのは無理だろう。

なので潰すのだ、ということを。

 

新年会は7日に例年通り行う。

そこでこの挨拶を読むがこれが社長として最後の挨拶だ(と母が言ったかもしれない)。

裁判所には金曜日の夕方、銀行が閉まってから行く。

その間時間稼ぎが出来る。

多分来週の月曜日の朝、地元紙に記事が載るだろう。

おめがだには迷惑かけるな、的な中身であったと思う。

 

そこにいる全員、祖父母も母も叔母も私も妹もみんな泣いた。 

その時の私の頭の中に無論、●ちゃんも●ちゃんの父親がいるはずもない。

 

続く。 

 

*1:坊はどうしている?の意味。坊=私の母;祖父は血のつながらない私の母を「坊」と呼んでいた。今となっては何故坊、と呼んでいたのかは不明。ちなみに私の母も私の妹のことは小さい頃は「坊」と呼んでいた