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【読書】春にして君を離れ1【恐ろしい本、哀しみにみちた本】

 アガサ・クリスティのミステリーとは言えないミステリー小説??

 

どうやらロマンス(ハーレクインみたいなもんか??)小説らしい。

ペンネームも当初、アガサ・クリスティ名ではなかったようである。

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

1週間ほどで読了。

初めて手にとったのが21か22歳くらいの時。

しかし、当時の私には何が書かれていたのかさっぱり理解できないお子様であった。

 その意味ではこの主人公のジョーンと一緒であろう。

 

その後数回購入し、読んだものの一度も手元に残ることなくブックオフ行きしてると思う。

 

まあ、私の精神状態もそういうことだ。

 

栗本薫によるあとがきが秀逸なのでその一部を引用する。

ja.wikipedia.org

「・・・・私にとってはこれは個人的な意味合いで正視するに耐えぬほど恐ろしい本であり、哀しみに満ちた本であり(栗本薫はわざわざ「悲しい」ではないと文中で念を押している)、またその恐ろしさと哀しみで私に勇気を与えてくれた本でもあった。だが私の夫はこの本にそんな恐ろしさや哀しみは感じない、という。おそらく彼は幸福な育ち方をしているのだ(中略)。

ロドニーはジョーンに、彼がいかに自分を偽っているかを教えなかった。そしてそれを彼女一人の責任にした。そして今では彼女一人の責任だ。だが同様に、ロドニーは【優しさ】と名付けられたその彼自身の現実逃避によって彼の一生を失ったのだ。そのことを彼はまた、ちゃんと背負ってゆかないわけにはいかないだろう。彼はいつでも牧場を経営することもジョーンに身勝手であることをやめるよう、さもなければ彼女と暮らすのをやめるよう、選択できたのだ。

無論それは結果論だ。だからこそこの小説は限りなく恐ろしく、そして哀しい。ジョーンの一生はもう定まってしまった。最後のチャンスをジョーンは自ら長い友達である怠惰と怯懦に敗れて手放した。そしてロドニーもまた。(中略)

これまで小説というものはみな「かくあれかし」とひとをはげましたり、鼓舞したり、感動させるものだと思っていた。この小説は私に「苦い感動」「哀しみにみちた慰安」があることを教えてくれた。だから、この小説は私にとって、そしてまた、同じような苦しみをかかえた人間にとってだけ永遠に苦い切ないバイブルである」

 

ジョーンは夫のロドニーに、帰国後予期せず長引いた英国への帰途途上に思案したこと、夫や子供達、亡くなった友人に対しての気づきをはっきり告げるべきであったがそれをしなかった。

本人曰く、見ようとしていなかったことは、思い出すのもつらい事実であろうから、多分なかったことにしようと無意識に行動したのだろう。

しかし、ジョーンは夫が、自分が弁護した夫の配偶者を愛していた、彼女は出産時に亡くなってしまったが、いや今も多分気持ちは彼女、レスリーにあることには考えが深く至っていないようである。

深いところで、精神的なつながりで終わったであろう二人。

仮にこのことを知って告白したところで、夫のロドニーはどう応えただろうか。

 

 

風と共に去りぬ」に似たような場面があることを思い出した。

最後に近い場面であるが、「風と共に去りぬ」ではもう答えが出てしまっている。

 

レットはスカーレットの言葉にはもう応えるつもりはなく、彼女の元を去ってしまった。

しかも、レットは私の記憶通りであれば文中では「今の自分の気持ちを偽って暮らすつもりはない」とまで言っている。

彼女の奔放さ(精神的な幼さもあるか?バイタリティに溢れた人物ではあるが)に惹かれていたレットであったが、レットはスカーレットの、自分に対して愛情を示す者に対して冷たい振る舞いをする部分があること、いつまでもアシュレを愛しているスカーレットに、自分の気持ちが報われていないことに寂しさ虚しさを感じていたのであろう。

 

一方のジョーンの夫ロドニーであるが、ロドニーが親から継いだ弁護士事務所での勤務は「自分が思っていたものではなかった」ことから嫌気がさし、「農場でもやりたい」とジョーンに告げるものの、反対され、断念する。

なぜ、親から相続した弁護士事務所を守っていくことができないのか。あなたには子供たちも私もいるのに。

 

3人の子供たちは「お父様」の本当にしたいことに気づいている。

「お母様くらいお父様を見ていない人もいないのではないか」という長男のトニーの言葉はジョーンには届かない。

日曜日ごとに農場を訪れるお父様に理解を示さないジョーンに対し、反抗心を示す娘たち。

ジョーンに言わせると「長男なのに」弁護士事務所を継がず、植民地で農場を経営する長男。

そんなこともあったな、と娘の元を訪れた長い帰途に思い出す。

 

イスタンブールで亡命したロシア貴族の公爵夫人と汽車で相席になるが、公爵夫人は途中で乗り換え、入院するために名医のいるウィーンに向かうという。

その場でも、ジョーンは車内での会話から察するに物事をあまり深く考えない質として書かれている。

 

「あなたは全く英国女性らしくないのね。時間があっても編み物もしないし、読書もしない」

「本は全部読んでしまったので」

「でも、本を買う時間はあったはずですわ」

 

お別れの前に公爵夫人が「あと何年かすればドイツとはいろんな国が戦争になるだろう、しかし、ドイツにはそう簡単には負けやしないだろう。私のお友達は皆口々に言っている」とジョーンに言ったことに対しジョーンは「ナチズムはそう悪いものでないらしい、と聞いている」と返したが、「3年後もそう言っていられるといいのですけどもね」と公爵夫人に反論される。

同じ内容をロンドン到着後、ホテルに呼び出した長女のエイブラルも「夫も同じことを考えているようだ」とジョーンに告げるも「そんなことは起こるわけない」と反論する母に対し、微笑で返したエイブラル。

短いが、母の扱い方を知っていたと思われる描写。

もう少しジョーンが若ければ、娘をその場で叱ったかもしれないが、彼女の方が多分上手になっていたのであろう。

 

もし、ジョーンが玄関先で正直に「ロドニー、赦して。知らなかったのよ・・・・」と呼びかけていたら、ロドニーはどう答えたであろう。

彼女を表面的には赦したであろう。

しかし、失った時間は戻らない。

ロドニーは妻として、子供の母としてスカダモア家を盛り立てた(とジョーンは思っている)「28歳くらいにしかみえない」女に感謝しつつも、心はレスリーに置いたまま、そして時折は彼女の墓所を訪れ、たまに彼女との時間を思いだし一生を終わるのだろう。

 

ひとりぼっちのジョーン。

ああ、それに君が気づかないように。

彼女は自分の作り上げた明るい、自信に満ちた世界の中で幸せに、安泰な毎日を送り続ければいいではないか。

 

これを恐ろしいと言わずとして何というべきか。

自分が築き上げた(と思っている)家庭が、自分なしで、母や妻とは精神的なつながりがほとんどないまま、子と父親と結託して、「母さん、いろいろうるせーから母さんの思い通りにさせてあげようぜ、そのほうが母さんもうるさく言わないしな」

って思われているのを肝心の母が知らないってのは。

平たく言うと、そういうことだぜ。

 

しかも、母はそれに気づきながら「面倒くさい?」を理由にして謝る機会を永遠に失ったかもしれないという事実。

あ、死の床でいうこともあるのだろうか。

それはあまり考えられないけどね。

 

実は・・・・続くなのである。

なので「1」である。